右脳系エンジニアのブログ

エンジニアとしての生き方のプロトタイピング、新しい社会のプロトタイプづくりをしています。

「しまう」日本の文化

今日、建物の取り壊しが進む小高にて、こんな話を聞いた。

「○○さん、建物これから壊すっていうのに障子張り替えているんだって」 「これって、俺達はなんとなく理解できるけど、外国人にはきっと理解されない感覚だよなぁ」

私も、なんとなく理解できる。自分はやらないが。

日本人はものを片付けることを「しまう」とか「始末する」とかいうけど 「終わらせる」ということは「片付ける」と似たような感覚なのかもしれない、とふと思った。

終わらせるからこそ、キレイに始末する。

んー。親に「ほったらたかし」と呼ばれる私には似合わないね。

教育の壁

f:id:Morilin:20160220135638j:plain

教育の壁とでも言うのだろうか。最近ぶち当たっている。

実践に向かっていくフェーズの人材育成で、壁にぶち当たる。

web制作講座をやらせてもらっているが、好奇心の壁を越えられない。教えてあげられても、彼らの好奇心が進み出すところまで勧めきれないもどかしさを感じている。どうするのが、良いのだろう。

経営者として、人間として。

やっとのことでキャッシュフローが回るようになり、少しずつ業績も安定してきたので、先日従業員を雇用した。 従業員を雇うことは、資金繰り的な側面での不安が拭いきれず、不安になることも多い一方で、自分の仕事を気兼ねなく手伝ってもらえる人が居るという意味では極めて心理的によい効果があった。

早速色々な作業を任せたりしているが、先週はとにかく時間がなく、ほとんど様子を見れなかった。 さらに週末は、イベントの手伝いをしてもらったが、準備も不足し、当日もろくに指示も飛ばせず、 せっかくの時間をムダにさせてしまったように思う。

会としては形に収まったように思うが、従業員だけではなく、手伝ってくれた周りの人も精神的に疲弊させてしまった。

本当に申し訳ない気持ちで一杯である。

経営者として失格、くらいですめばいいのだが、人間としての欠損があるのかもしれないなんて考えてしまう。

震災直後に立ち上がったリーダーってせいぜい5年生だからな

f:id:Morilin:20160216211145j:plain

別に自分の仕事ぶりに言い訳するつもりはないんだけど、ちょっと言いたいことがあったので言わせてほしい。

自分とか事業主になってようやっと1年のひよっこだから言うけど、震災直後に立ち上がったリーダーたちだって、たかだか5年生なんですよ。

まず経営のことなんてわからないことが多いし、経営がわかっても地域づくりなんて経営学フレームワークが全部使えるわけじゃないし、リーンキャンバスとかの使いやすいフレームワークですらあんまり役に立たない時が多かったりするんだよね。シンプルな経営してないから。   だから、失敗する。めちゃくちゃ失敗するし、繕ったそばからいろんなところでポロポロこぼれだすし。

ヴィジョンも共有したいし、KPIも5年後の組織像も考えたいけど、それを整理してくれるスパーリング相手もいないし、頭の中グッチャグチャなままやってるはずだと思うんだよ。

事務とかもどんどん後手後手になるし、何か決断せまられてもこの一歩踏み間違えたら即死みたいな環境での判断なんか、どうやっても時間かかるよ。

それに反して、メディアの人たちはどんどん食いついてくれる。面白いプロジェクトだって取り上げてくれる。 どんどん周りの期待が肥大化していって、でもやれることはいきなり増えない。

さらに、それを見て「一緒にやろう!」って言ってくださる方が増える分、時間は削られていくし。 結果、その分どんどん自分の出来ることと期待が乖離していく。この状況に耐えるのだってかなり辛い。 宣言したことが上手くできないことなんて数えたらいくらでもある。

私はここでうまく行かなかったら別の場所に逃げられるけど、地元で立ち上がった人たちってそうはいかないわけでしょ。今のやってることの成否がヘタしたら自分の一族郎党までの評価になるとか考えたら頭おかしくなりそう。でも地域のリーダーみたいな人たちは、人によってはそこまで背負ってやってるわけやん?

私はこの街に「役に立つ」つもりでここに来てるから、私がここにいて、穀潰しになって役に立たないのは批判されてしかるべきなんだけど、 必ずしも地域でリーダーやってる人たちが「役に立てる」なんて思ってやりはじめたわけじゃないとおもうんだよね。 大半の人たちが自分に出来ることがあるかなんてわかんないけど、それでも立ち上がらずにはいられなかった人たちが、今この場所に立ってるってこと。

そういう人をさ、なるべく「評価」するんじゃなくて、上手くできるように一緒になって考える立場でありたいなって思うんですよ。 いや、まず自分の生活考えなアカンのやけど。

うーん、何が言いたいのかわからなくなってきたけど、これからも和田さんの活動とか、フロンティアさんの活動とか、コンソーシアムさんのやりたいこととか、若松さんが鹿島で盛り上がっていきたいみたいな気持ちを応援したいってことです。これからも一緒に遊んでくださいね!ありがとうございます!

リーダーになるために 新装版

リーダーになるために 新装版

たいてい助けてもらえる。

私は、人にお願いするのが下手だ。 頼られることは好きでも、頼るのは大の苦手で、 それがこのある程度のことなら何でもかんでもやれてしまう能力の源泉でもあると思っている。

でも、最近は何でもかんでも一人でやるには、いくらなんでも手が回らないし、考えても答えが出なかったり、人手が必要なシーンが増えてきた。

困ったときに頼る人は、大抵の人は助けてくれる。 私の周りにいる人たちは本当に暖かくて、優しくて、心強い。

後輩に信用について講釈をたれた分際だが、私もまだまだ甘いのだ。 助けてくれる方々の信用に足り続ける人間であるよう、これからも励みたいと思う。

研ぎ澄まされた仕事は、安定の元にはない。

最近、研ぎ澄まされた仕事をしていない。 そんなことをふと思った。

いや、多分最大限の仕事をしているのだが、逆に言うと「最大限以上」の仕事をできていないのではないかと。

自分のできないことをしたり、自分の殻を破らなければ到達できないような、ヒリヒリした状況に自分の身を置けていないのではないか。

「小高の少数力」を発行したが、私をよく知る友人からは「つまらない」と一蹴されてしまった。

小さくまとめてしまったような気がする、という思いは自分のどこかにもあったのだ。だからそう言われた瞬間にすぐ何がいけないのか納得した。

出来ないことに挑戦し続けなければ、成長はないし、誰もやりたがらないことを楽しそうにやっていなければ、私じゃない。

そんな反省をした。

大阪人の「知らんけど」は、他人の考えを受け入れる意思表明です。知らんけど。

最近、大阪人です~って話をすると

f:id:Morilin:20160210093049p:plain 「大阪人って本当に『知らんけど』ってよく言うんですか?」

と聞かれます。

言われてみれば、そこそこみんな使ってる気もします。知らんけど。

オバカな会話から、真面目なトークまで登場します。知らんけど。

「知らんけど」は無責任で言っているわけではない。知らんけど。

みんな使っているというと「なんて大阪人は無責任なんだ!」って思う方もいらっしゃるかもしれません。

でも、大阪人が「○○と思うで。知らんけど。」

っていうときは、大抵前半の意見をちゃんと自分の主張として持っていることがおおいです。知らんけど。

なぜ「知らんけど」ってわざわざつけるかというと

「わたしの意見は○○ですが、あなたや他の意見は違うかもしれないし、それをわかっていますよ。意見を受け入れるかどうかはあなた自身が決めてよいですよ」

という意思表示のためで、実は無責任であるようにみえて、「責任のある発言だとわかっているからこそ、相手が受容するかしないかを選択する余地を残す」発言。

お互いぐいぐい来る大阪人なりの、コミュニケーション術なんだと思っています。知らんけど。

みなさんも、「知らんけど」が持つ寛容さを意識して活用すれば、コミュニケーションの達人になることまちがいなしですね。知らんけど。