右脳系エンジニアのブログ

エンジニアとしての生き方のプロトタイピング、新しい社会のプロトタイプづくりをしています。

廃炉は手段。手を取り合う関係にしたい。

話の内容

2018/03/18 AFW・三菱総研主催の、廃炉へのコミュニケーションを考える座談会に参加してきた内容と、その振り返りです。

2018/03/19追記 ※主催は経済産業省資源エネルギー庁で、開催がAFW・三菱総研さんとのことでした。

僕がこの話を書く目的

地域住民と東電サイドの人たちがちょっとでも手を取り合って復興に向かっていく関係をつくりたい。

そのために、どこが問題になっているのか整理しながら、具体的な方策についてくっそアイデアレベルですが提示してみたいと思います。

注意事項

便宜上、今回の座談会で廃炉の取り組みと説明を進める側にある「東電・NDF・経産省らへんの人たち」のことを「東電サイド」、 地域にいる人、いた人を地域住民と呼びます。

座談会の性質上、主催者以外の個人名や組織名は出せません。ゆえに「東電サイド」や「地域住民」とぼかしています。 また「東電サイド」というのはあくまでこの場で見えている方々の議論に基づいており、大本営の意向や意志とは異なる可能性があります。

前提:圧倒的埋まらない溝

地域住民の東電サイドに対する気持ち
  • 「本当に議論する気があるのか」
  • 「しゃべってる言語が違う」
  • 「認識ずれすぎ」
  • 「言っても変わらないので諦めている」
東電サイドの地域住民に対する気持ち
  • 「マイナスのイメージの中、住民に話を聞いてもらえるのか」
  • 「たくさんの時間とリソースを割いて説明しているが不安・不満が解消されていかない」
  • 「どんなことを説明すれば不安を解消してもらえるのかわからない」

結論:お互い話すのがとても辛い

※冒頭にAFWの吉川さんから「なんとなくお互いに話すのが不安な気持ちがあるよね」といっていましたが、のちのちこういうことなのだとわかってきました。

逆にいうと、私は最初「え?そんな不安?別に国の人と話すとか大丈夫だけどなー」とかのほほんと構えていました。 こういうバックグラウンド合ってのことですよね。ごめんなさい。

なぜ「本当に議論する気あるのか」と言われてしまうのか?

おきている現象

Q.復興はどうやって進めていくんですか?

A.廃炉は安全安心してもらえるように進めていきます。

ちょっと単純化しすぎかもしれませんが、こういうやり取りになっている気がしました。 質問にまともに回答が返ってこない、というような状況が生まれてしまっている。

住民の目線から読み解く

地域の住民にとって関心があるのは、廃炉という「手段」というよりは、

「この地域でどうやって豊かに生活していくか」

「元通り(にできるだけ近い)暮らしが送れるか」

ということじゃないかと思っています。

それは単純に放射能のリスクに対する不安だけではなく、仕事への不安・家族がバラバラになってしまったことへの不満、 未来への見通しが立たないことへの不安感など、沢山の問題を抱えています。

そのために、廃炉だったり、復興拠点だったり、賠償金だったり、なんだったり・・・いろいろあるわけなのですが、 その全体を踏まえた上での「見解と方策」が聞きたいのに、東電サイドからは一向に「廃炉に向けて進めてます」「安全・安心してもらえるように進めていきます」みたいな回答がかえってきちゃう。

後輩がこんな的を得ない回答を返してくるだけで多少はいらっとするので、地域をこの状況にした原因の東電サイドからこんなふうに返ってきてしまった日には怒りがこみあげてしまうのは想像に難くありません。

東電サイドの気持ちから読み解く

※何度も言いますがここの「東電サイド」は「東電サイドの立場から関わっている、今回の座談会に来てくださった個人」を意味しています。

一方、東電・政府サイドの方は「起こしてしまった被害を少しでも0に近づけたい。そのために不安を取り除きたい」という気持ちを強くお持ちでした。

こんな強い気持ちを持った方がどうして「議論にならない」やり取りをしてしまうのか、話をすすめていく上で見えてきたことがあります。

紋切り型の回答の裏にあるもの

今回話をする中で東電サイドの方が話しはじめたときに「この度は多大なご迷惑・ご心配・ご不安をおかけし・・・」という言葉ではじまるくだりがありました。

地域住民の方は、この言葉を聞いたら地域住民の人は「あ、また来たなー」と思いませんか? あまりにもききすぎて「あー、また形式張った話がはじまるのか。うんざり」という気持ちになってしまうかも正直おられると思います。

今回、僕もそういった点がきになったので指摘したところ、「どうしてもそれが立場上の形式的なものに聞こえてしまう。マニュアルでは?」という議論がおこりました。

しかし、その人から出てきた言葉は「そんなマニュアルなんてありません。そのように言われてしまうのは正直にいってちょっとショックでした・・・」という言葉でした。

絶対に嘘は言っていないだろうリアクションで、本当に悲しそうな顔をさせてしまいました。 軽はずみで「マニュアル」なんて表現を使ってしまい、すみませんでした。

でも、なんでこんなに「1Fの廃炉がらみのことで話に来る人」は見事に同じような言葉になってしまうのだろう・・・? もっといろんな言い方や思いがあってもいいのでは?という疑問は、正直に伝える必要があったと思うのです。

東電サイドの人達で、前にでてくるような人たちは本当にすげー申し訳ないと思ってる。

今回の座談会、東電サイドの方も「休日返上」の「有志」で臨んできてくださっている方々でした。

少なくとも僕らの目の前にいる「東電サイド」の人たちは、今回の事態を 自分たちの問題でこんな被害を及ぼしてしまい、本当に申し訳ないし、だからこそそれをなんとかして取り除かねばならない、という使命感に燃えている方々です。

だからこそ、マイナスをつくってしまった責任を、なんとかそのマイナスをゼロに近づけることによって解消しないと・・・!みたいな強い気持ちになっている。

だからこそ「この度は多大な・・・」と「廃炉の取り組みを住民に理解し、不安を解消してもらえるように努力する」がセットになってしまったのだと理解しました。

この「マイナスをゼロに近づける」という使命感が、それ故の視野狭窄をもたらしているのでは?ということを感じました。 「何を差し置いても、生み出したマイナスをゼロに近づけることが最優先」という思いがゆえに、地域住民の本質的な願いと離れてしまう結果を招いていると感じたということでもあります。

「やり方はなんでもいいから元の水準に近づけたい」とか「どんな方法でも未来を地域を残していく道筋を立てたい」 (でも道筋が見えない不安や絶望感から東電サイドに辛くあたってしまう)地域住民と

責任感が強すぎるゆえに放射能汚染によって生まれたマイナスをゼロにする」という手段で頭の中がめいっぱいになってしまっている東電サイドの人たち

という構図が見えてきました。

お互いに「復興のために重要だと思うことをやっている」けど、それがずれていた

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要は、お互いに一生懸命考えたいと思っていたのに、なんとなく「お互い話きいてくれねーな」みたいな気持ちになってしまった部分があるのではと感じました。 復興について考えていることの違い、役割認識の違い、立場の違い。そういった違いをお互いに理解できないまま、溝を埋められないまま至ったのが今日の状況なのかも・・・と。

「また形だけのガス抜きか」みたいな思い込みも邪魔してしまってるのかも

繰り返しになりますが、逆に地域住民も東電の方が「この度は・・・」と話すたびに「またガス抜きか」という思い込みをもって接してしまっていたということに気付かされました。

逆に言うとそれだけ肩透かしを食らった側面も多かった・・・というのは事実だと思いますが、目の前で話している「個人」と接するときにも無意識に「東電サイドの人間」というレッテル貼りをしてしまっている可能性がないかは振り返る必要があると気づきました。自分も知らずしらずのうちにそういう判断をしてしまっていたことは大いに反省すべきです。

「手を握れる関係」をつくっていきたい気持ち

少なくとも今回「あ、コイツポーズで来てんな」みたいな人はおらず「ちょっとでも前に進めたい」という人たちばかりだったと思います。

そういう人たちと、不理解が理由で対立することは浪費でしかないはずなんですよね。 少ないリソースでがんばろうといっている地域なんだから、もうちょっと手をとり合って進めたら素敵なのにな、という思いがあります。

地域住民のことを東電も一緒にやる。東電がしたいことを住民も一緒にやる、みたいなしかけがあってもいいのでは?

「歩み寄ろう」みたいなことを言うのは簡単なのですが、それをどうやって仕組みに落としていくか、というのは考えねばならないことです。

大本営は置いといて、今回来てくれた人たちと、僕たちみたいな地域のプレイヤーで「お互いにやってみたいことを話す会」みたいなの、 やってみるのはどうかなぁと思いました。

僕も、なんだかんだいってついつい手弁当でやってしまうので常に金欠(笑)という問題があって、いろんな形での支援や協力が得られるなら お願いしたいなと言う気持ちがあるし、逆に、東電サイドで「こういうことを伝えたいんだけど」という話をしてもらえたら、地域住民にどうやったら うまくつたわっていくかみたいな話をできたり、むしろ僕らのコーヒー屋が情報屋としてチャンネルを担うことだって、可能性としてはあってもいいのではと思いました。※

そんな話が進んでいけば、地域住民が取り組んでいる復興のための活動に1メンバーとして関わってくださる東電サイドの方がいたり、 逆に東電サイドがすすめていきたい活動に地域の人達が密接に関わっていたりして、少しずつお互いの距離が縮まっていく・・・ みたいな世界線もあるんじゃないか。できることならそういうふうにしていきたいって思いませんか?

まとめ:AFW吉川さんのやってきたことの価値と複雑な感情

※AFWは福島原発の現状を伝えることや原発の関係者と地域住民をつないでいくことを通じて、 地域住民と東電が地域の次世代をつないでいく活動をやっている団体です。(と私は解釈しています) 今回、話を聞いていく中、震災後たくさんの「伝わらない」「わからない」「憎い」「辛い」・・・すごくたくさんの思い、いろんな感情があって、 そういう気持ちの中でお互いの関係が複雑になってしまった部分があるのかなと感じました。

吉川さんが震災後こうやって活動されてきたことは、複雑な関係を少しずつでもほぐし、前に進めてきたという点において価値があったのでは そして、それが進んできたからこそ、僕みたいなヨソモノがヅカヅカ踏み込んだ議論をしても、対立にならないような関係になってきているのでは と思います。

今回の座談会ですが、僕は良くも悪くも震災後よそから入ってきた人間なので、東電への恨みはない一方、 これは国難なので「みんなで一緒に考えたら良いんちゃうの?」みたいなサクッとした気持ちでいました。 逆に言うと、単純にそういうふうになれない、精神的溝も大きかったんだろうなぁということを、感じざるを得ませんでした。

「東電」「原発」というキーワードは未だデリケートで、簡単に「前を向く」とか「対立じゃなくて協働」みたいな事を言っても、できるものではない。

でも、少しずつでもいいから、その気持ちをほぐして、未来に向けていく努力を、今のわたしたちの世代が怠ってはならないのだ、と感じています。

ヨソモノである自分の役割

そのあたりの精神的わだかまりがない自分だからこそ、立場上互いに言いづらいことを言ってしまうことや、 「たぶんお互いこんな気持なんじゃないですか?」と代弁しつつ翻訳する、みたいなことができるのかなぁとも思っています。

(最後のほう、白熱して自分の言いたいことを言いたいだけ言ってしまいましたが・・・・)

ヨソモノだからこそ出来る「手を取り合う」関係づくりもあるのかな。引き続き考えたいと思います。

編集後記:「住民に十分伝わったか」みたいな砂漠に水をまくKPIは不幸にしかならない。

東電サイドの方の話をきいていると

「住民の方に十分に説明がいきとどき、理解が得られたこと」とか

「それによって不安が解消されたこと」を

この取り組みのKPIにされているように感じました。

自分に置き換えてみたらゾッとするんですけど、これ、めちゃくちゃしんどくないですか?

  • 頭っから危険な前提で、何をいっても絶対に安心なんてし得ない人
  • 地元をめちゃくちゃにされてしまったという負の感情が大きく、話が進められない人 は絶対にいますし、しかも声が大きくなりがち。こういう相手も含めて「理解してもらえた」という結論を得るのは困難、というか達成不可能なKPIです。

この状況に対して「なんとかして伝えていこう」という気持ちでこれまでやってきてくれたのだと思うと、圧倒的敬意を表せざるを得ない。 普通心折れるよこんなん。それでもやり続ける使命感というか責任感の強さというか。そういう面を地域住民ももっと評価しないといけないのかなと感じました。

「東電サイドの有志で頑張ってる人を褒めるだけの会」開きたい。